2009年06月15日

醸造の技術が進歩しても良いブドウからでしか

どんなに醸造の技術が進歩しても良いブドウからでしか良いワインは作れない。そのためブドウ作りは醸造以上に重要であると言える。ワインに使われるブドウの種類は基本的にはヨーロッパ種(学名:Vitis vinifera)である。品種はサルタナ(トンプソン・シードレス)種などごく一部に生食用に使われるものもあるが、ほとんどはワイン専用である。一般にワイン専用のブドウは生食用のブドウよりも粒が小さく、皮が厚く、種が大きく、甘みと酸味がより強い。主なものにカベルネ・ソーヴィニヨン、メルローなどがある。どのブドウをどの程度使うかは味の特徴を決定する大きな要因である。現在ワイン用ブドウとして作られる品種のほとんどがヨーロッパ種であるので、ワイン用ブドウの生育に適した気候は地中海性気候等のヨーロッパの環境に準じたものとなる。
気候に続いて土壌も重要な要素である。土壌に関してはカリフォルニアのように、あまりに栄養豊富でおまけに深いと樹が繁り過ぎてかえって良いブドウが作りにくい。たとえ土地が痩せていても、水はけが良くて、ブドウが深くまで根を張ることができる程度に土が硬くなければ、ブドウの栽培には都合が良い。土壌の中の栄養素もまた味の特徴として出ることがある。しかしその栄養素のブドウへの取り込みは台木の種類にも影響される。これらにブドウが栽培される畑の日当たりや局地的な気候などの要素を加え、それを一くくりにして「テロワール」と呼ぶ。
ブドウが生育するに当たり、樹が大きくなりすぎたり、あるいは房になる実の数が多くなりすぎたりすると一つ一つの粒に与えられる栄養が少なくなり、ワインにした際に品質を下げることになる。そのため多くの場合は、ブドウの樹は剪定などを行ってあまり大きくなりすぎないようにし、房は間引きを行うことになる。
その年に雨が多く、日照量が少ないとブドウの生育が悪くなり、そこからできたワインは糖分に乏しく腐敗果の混入の恐れが増える。逆に日照が良すぎ、生育が早すぎると糖分が強くなりすぎ、酸味とのバランスが悪くなる。その年のブドウの作柄のことをヴィンテージと呼ぶ。現在では転じてブドウを収穫した年のことをヴィンテージと呼び、その年の出来不出来によってワインの出来が変わる。そのために各国のワイン関連組織やワイン専門誌などによってヴィンテージチャートが発表される[2]。安価なワインでは品質を安定させるために複数の年のワインを混ぜた「ノン・ヴィンテージ」であることが多い。シャンパンはノン・ヴィンテージが一般的であり、産年表示された「ヴィンテージ・シャンパン」は、高級品に限られる。
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醸造のいくつかの段階で酸化防止剤としても知られる二酸化硫黄(亜硫酸ガス, SO2)またはその塩(ピロ亜硫酸カリウム)が添加される。亜硫酸には、雑菌の抑制および殺菌、葡萄の皮に含まれる酸化酵素の阻害、果汁中の色素の固定、ワインで発生することのある過酸化水素の除去、酸素の除去(ただし反応は遅い)等の様々な重要な働きがある。亜硫酸は人体に有害な物質としても知られるが、フランスのワイン法では必ず亜硫酸を添加することを義務付けているように少量であればほとんど問題はない。しかしこれを気にしてこれを添加しない製法もあり商品化されているがまだ研究段階と言え、そうして造られた製品は往々にして品質が低い。また、日本やヨーロッパ諸国、アメリカなどでは、製品中の亜硫酸濃度が厳しく規制されている。日本で販売されているワインの『無添加ワイン』とは亜硫酸が無添加であることを意味している。

2009年05月29日

ゼノン (ストア派)

ゼノン(Zēnōn, 紀元前335年 - 紀元前263年)は、キプロス島キティオン出身の哲学者でストア派の創始者。

商人の息子に生まれ、成人して自らも商人となり中年期に至るまで商業に携わっていたという。

彼が22歳の時に乗っていた船が難破してアテナイにたどり着き、偶然立ち寄った本屋でクセノフォンの『ソクラテスの思い出』に感銘を受けた。本屋の主人に教えられるまま、キュニコス派のクラテスについて同地で哲学を学んだ。キュニコス派やアカデメイア派の影響を受ける中で、彼自身の思想を確立するようになる。 最終的に彼はアテナイの彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で彼の思想の講義を始めることになるが、この場所の名前から彼に始まる学派をストア派と呼ぶことになった。
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彼が展開した思想は、資料が断片的にしか残存していないために、総合的な理解は困難となっている。しかし、自然学、論理学、倫理学という哲学の三分法を設定したこと、快や不快に対して心を奪われないことによって心の平穏が獲得できるという、ストア派倫理学の基本軸を設定したことは、彼に起源を見ることが妥当だと考えられている。

伝えられる彼の最期は次のようなものである。彼はある日、学園から帰途につく際に転倒しつま先の骨を折ってしまったが、ストア派の思想に従い、高齢である自分にとってはもう死ぬことが適当だろうと考え、「いま行くところだ! どうして私を呼びたてるのか!」と言って、自ら息を止めて死んでいったという。

2009年04月26日

欧州において「皇帝」の称号は

古代、欧州において「皇帝」の称号は、専らローマ皇帝を意味した。当初のローマ皇帝即位の要件は元老院・市民・軍による推戴であり、キリスト教国教化の後は教会の擁護者という位置付けが加わる。

ローマ帝国の東西分裂後、西ローマ帝国では5世紀のロムルス・アウグストゥルスを最後に一旦皇帝が存在しなくなるが、800年にローマ教皇レオ3世がカール大帝を戴冠させる。これが後に事実上のドイツの君主号となる神聖ローマ皇帝の始まりである。

一方、東ローマ帝国は15世紀まで存続し、その君主号はやはりローマ皇帝であった。東ローマ帝国の滅亡後は、ルーシのモスクワ大公が第3のローマ論と女系の血統を根拠に東ローマ帝国の継承権を主張し、カエサルに由来するツァーリ(ロシア皇帝)を名乗るようになった。

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やがて19世紀に入ると、欧州諸国の指導者がローマ皇帝からの由来なしで「皇帝」の称号を名乗るようになっていった。フランスではナポレオン・ボナパルトが国民投票とローマ教皇からの加冠をもってフランス皇帝に即位する。これに続き、神聖ローマ皇帝を事実上世襲していたハプスブルク家は、神聖ローマ帝国の終焉と前後してオーストリア皇帝を称するようになった。さらにプロテスタントのホーエンツォレルン家は、ドイツ統一と諸侯による推戴を根拠に、教皇からの加冠なくドイツ皇帝に即位した。

可汗(天可汗)、スルターン、サパ・インカ、マハーラージャディラージャなども「皇帝」と訳されることが多い。

一般的に君主号の多くは「国王」と訳される。故に「国王」号とは君主国で最も代表的な君主号であるといえる。独立国の場合、一概には比較できないが、一般的に「国王」号とは「皇帝」号の下位の君主号として捉えられることが多い。特に、中華王朝においては、その軍事力と経済力を背景に近隣諸国を従属国としてとらえ、朝貢国の君主に国王の称号を授ける冊封儀礼を行っていた。このため、中華王朝では近隣諸国の国王を形式的臣下として遇していた。なお、独立国の国王の敬称は陛下、宗主国より冊封を受ける属国の王の場合、殿下と称される。

日本においては、大和政権に於いて君主号を「おおきみ」としており、漢字の導入の際「大王」の字を当てた。中華王朝との朝貢・冊封関係があった時代には「倭国王」などの称号を受けていた。しかし次第に「天皇」号をもって君主の称号となしたため、以降、天皇家に属する君主の間では「国王」は原則称号として用いられていない。しかし、南朝の親王の一人懐良親王は明に朝貢して「日本国王」に冊封されており、そのすぐ後の室町幕府3代将軍足利義満は日明貿易を通じ、天皇家を抑えて「日本国王」に冊封されたことで、室町時代には対外的に外交称号として「日本国王」号が用いられた。これは江戸幕府においては踏襲されず、一時期日本国王を名乗った事もあるが、「日本国大君」として外交交渉を行った。

琉球王国では、君主は国内では「御主」と称したが、外交称号としては「琉球国王」を称している。

国王に相当する英語の称号としては、キング(king、便宜的に英語を用いる)などがある。

爵位とは通常、貴族に世襲された称号を意味する。しかし、古代中国及びヨーロッパにおいては、広大な領土を有する諸侯が、帝国ないし王国から半独立的な自治権を獲得していく中で、次第に有爵者を君主として独立国となった国も存在する。王(king)の下位にあるためprince、grand duke(和訳では大公、公、侯など)と呼ばれる。 特に現代においては神聖ローマ帝国時代に帝国から爵位を授けられ、大公国ないし公国、侯国として続いている国もあり、現代においては、ルクセンブルク大公国、モナコ公国、リヒテンシュタイン公国(侯国)がその例である。なお、敬称は殿下である(通常の貴族であれば閣下と敬称する)。

2009年04月09日

終身刑

終身刑(しゅうしんけい)とは、刑の満期が存在せず、受刑者が死亡するまで刑の執行が続く刑罰である。無期刑と呼称されることもある。刑種には、懲役と禁固がある。

終身刑には、仮釈放("parole")の可能性のあるタイプと仮釈放の可能性のないタイプがある。ただし、日本においては、仮釈放のないタイプのみが終身刑と呼称されることが多い。

仮釈放の可能性のある終身刑 [編集]
終生という刑期の途中で、仮釈放による社会復帰の可能性があるものをいう。相対的終身刑(相対的無期刑)と呼ぶこともあり、ヨーロッパにおいては、多くの国でこれが最高刑となっている。日本の無期懲役に相当し、日本の刑法では、死刑に次いで重い刑罰とされている。

各国の終身刑の最低服役年数については、日本・ベルギー・ニュージーランド・イタリアが10年、オーストリア・フィンランドが12年、ドイツが15年、カナダが15年(原則)および25年(特別の場合)、ギリシャが16年、フランス・オランダ・メキシコが20年、ポーランド・ロシア・台湾が25年となっているが、これはあくまで仮釈放の申請が可能になる年数という意味にとどまり、仮釈放の実際の運用は国によって違いがある。また、イギリスのように判決宣告の際に裁判官が最低服役年数を定める国もある。

一方、服役期間の上限が設けられている場合もある。ペルーの法律では長期刑は最高で16年までとなっているため、300件の殺人を自供し、53件までの死体の埋めた場所を告白したペドロ・ロペスなどは終身刑を宣告されたにも関わらず、釈放されている。

日本の例を見てみると、法制上は10年を経過すれば仮釈放の申請が可能になるが、実際には、最近では基本的に最低20年以上が経過しなければ仮釈放が認められない運用がされており、2005年の仮釈放者の平均在所年数は約27年となっている[1]。また、フランスも、法制上は20年を経過すれば仮釈放の申請が可能になるが、仮釈放者の平均在所年数はそれより長く、約27年となっている[2]。但しこの数字はあくまで仮釈放が許された者の平均の数字であって、その裏には仮釈放を許されないまま刑務所で死を迎える者(獄死者)の方が圧倒的な多数である。98年以降の無期懲役刑を受けての獄死者の人数は120人で仮釈放された延べ人数の104人を上回っている。

なお、相対的終身刑は、仮釈放を許されても、刑自体は終了せず、終生または一定期間、保護観察などに付せられる形態を取っている場合が多く、日本においても恩赦などの措置がない限り、原則として、終生保護観察という形で刑の執行が続くこととなっている。

仮釈放の可能性のない終身刑 [編集]
仮釈放による社会復帰の可能性がなく、終生に渡って身体の自由を拘束されるものをいう。絶対的終身刑(絶対的無期刑)と呼ぶこともあり、アメリカ(一部の州を除く)やオーストラリア(同)、イギリス、中国などでこれが存置されている。

また、韓国では、最高刑を死刑制から絶対的終身刑制に変更する議論が活発に行われている[3]。

日本における絶対的終身刑の論議 [編集]

日本においても、死刑廃止論に関連して、死刑の代替刑として絶対的終身刑の導入が議論されているが、死刑存置派の一部から「人を一生牢獄につなぐ刑(絶対的終身刑)は死刑よりも残虐な刑である」といった意見[1]や刑務所の秩序維持や収容費用といった面からその現実性を疑問視する意見[2]もあり、また国民の多数は死刑を支持しているため、絶対的終身刑の支持を得るには至っていない。

逆に、「日本の無期懲役は仮釈放されることが大半である。つまり、無期懲役といっても社会復帰が可能であり、この二つ量刑の間に差がありすぎるので絶対的終身刑を導入するべきだ。」という意見[3]が少数ながらある。

なお、この制度(絶対的終身刑)を置いている国は世界でも少数にとどまっている(2002年4月11日森山真弓法務大臣国会答弁[4]、2006年10月20日長勢甚遠法務大臣国会答弁[5])。なお、裁判員制度が2009年5月に導入されることから、死刑存置派の森喜朗を最高顧問に置き、それに死刑廃止派の議員から構成される「量刑制度を考える超党派の会」が結成され、死刑制度を維持したうえで絶対的終身刑を創設する刑法改正案を提出する動きもある。

各国の終身刑の概略 [編集]

アメリカの場合 [編集]
死刑の有無にかかわらず終身刑は存在する。ただし、"Life Sentence"と"Life Sentence without possibility of parole"で呼び分けられ、後者の場合は恩赦がない限り社会復帰の可能性はない。死刑制度を廃止した州は第一級殺人には基本的に仮釈放の可能性のない禁固刑が言い渡される。死刑制度を存置している州と死刑廃止の州の両方で殺人などを犯し後者の州で逮捕された場合でも前者の州での裁判および死刑を免れることは連邦制度上できない。あくまでも死刑制度のない州で死刑を免れることができるというだけである。

なお、アメリカにおいては、法制度上、50年を超えるような非常に長期の有期刑、例えば懲役80年といった刑が言い渡される場合もあるが、この場合においても、服役態度を考慮して刑期を軽減する善時制度や仮釈放の制度が存在しているため、実質的な相対的終身刑であり、恩赦によってしか社会復帰が不可能な絶対的終身刑とは異なる。ただし、例えば懲役200年といった寿命を遥かに上回る刑期の場合は、実質的な絶対的終身刑となる(例外もある)。

中国の場合 [編集]
中国(香港、マカオを除く)においては、1997年の刑法改正によって、殺人などの凶悪犯罪で無期懲役の判決を受けた場合は、仮釈放を認めないとする規定が設けられたことにより、絶対的終身刑(絶対的無期刑)が存在している。ただし、恩赦による減刑の可能性は残されている。

イギリスの場合 [編集]
イギリスにおいては、裁判官が個別に最低服役期間(Tariff)を定める形を取っており、終身刑受刑者の最低服役期間の平均は約15年であるが、犯罪によっては、25年や30年といった通常より長い最低服役期間を定められることもあり、非常に重大な犯罪に対しては、例外的に終生の服役を定めることもできることから、絶対的終身刑も存在している。終生の服役を定められている者は、2002年時点では25人(終身刑受刑者全体の約0.5%)であるが、2003年に最低服役期間に関する指針が設定されて以降、増加している。なお、終生の服役を定められた場合であっても、恩赦の可能性は残されている。

デンマークの終身刑 [編集]
デンマークにおいては仮釈放の制度はないが、恩赦が柔軟に運用されており、終身刑の受刑者は、12年経過後、恩赦に関する審査を受ける権利が与えられ、恩赦を受けた者は5年間の保護観察つきで社会に復帰することができる。平均服役期間は16年となっているが、重大な犯罪の場合は服役が長期に及ぶことも多く、たとえば、警官4人を殺害した元受刑者は33年の服役を経て恩赦を許されている。

終身刑と無期刑 [編集]
終身刑とは、刑期が終生に渡るものをいい、その刑期の途中での仮釈放の可能性がなく一生を必ず刑務所で過ごさなければならない刑のみを終身刑と呼ぶわけではないが、日本では仮釈放の可能性のない終身刑(絶対的終身刑)のみが終身刑と認識されることが多く、このため、「無期懲役は期間の定めのない懲役であり、終身刑とは別のものである」といった誤解が生じている。しかし、無期懲役の「無期」とは「期間を決めない」という意味ではなく、「満期が存在しない」という意味であり、満期が来ることがない以上、刑の執行は終生に渡って続くため、言葉の本来の意味としては、両者は同じである。

同じ刑罰であっても、アジア圏のそれは「無期懲役」と訳されることが多く、欧米のそれは英語の life などに相当する語句が用いられているため「終身刑」と訳されることが多いことも、誤解や混乱を招いている一因である。

なお、期間を決めず刑種のみを指定する刑罰は絶対的不定期刑と呼ばれ、罪刑法定主義の考え方では許されないものとされている。

約束の橋 チーム 赤ずきん リコニー エジンバラ さくもん コモドド モスリン べにえび エンジン オーリ センデ ジーピー シーアイ マンサク ジュエリー トニック チューナー マンデート シャン だいろ 一千一秒 大人の生活 スキーム エイハラ スラロー ロータリー ティズム シンボル オヤマ ファシリ センタ テラコッタ センシ ツール モチーフ ギョリュ モジュ 中仙道 ひわき ジャッカル ケミストリー ローズウッド トークン 一字千金 地上の星 キャップ リーフ マナスル オーソラ

2009年03月25日

大正時代に作られた市松人形

いちま
大正時代に作られた市松人形。髪は市松人形特有の前髪を切りそろえたロングヘア。考え・会話することが出来る。特定の川の特定の土手に来ると、人間の大きさ・形態(高校生くらいの少女)になることが出来、また、同じ場所でもとの人形形態にもどることが出来る。この拡大・縮小の時、身に付けていた物も同様に拡大・縮小される。人間形態の時は、飲食以外はほぼ人間と同じことができる。むしろ腕っ節は強い。人形形態のときは会話することぐらいしかできない。誰とでも会話可能なのだが、秘密保持のため、人形形態時は基本的にゆきとしか会話しない。人形なので、あらゆる常識に疎く(例えば病気が理解できない)、料理など日常的なことも出来ない。それを、見よう見まねで強引に実行するので、面倒が大きくなる。人間形態での体の比重は小さく、浮き輪のように水面上に体全体がういてしまう。プライドが高く、強心臓で、自己中心にすべてのことを考え・行動するが、実はとても甘えん坊で寂しがりや(かまってほしい)。今は無き「お友達(ゆきの曾祖母)」との懐かしい思い出には誠実。ゆきにはひたすら甘えて、迷惑をかけることも厭わないが、他の人間には基本的に外面は良い。客観的に見るとゆきが被害者なのだが、いちまはゆきに悪意は無く、むしろかつての「お友達(ゆきの曾祖母)」亡き後の現在の唯一無二の「お友達」と思っており、それゆえゆきには甘えまくるのである。ちなみに、ゆきのことは「ゆきさん」と呼ぶ。
嫌いな言葉は「どうせ」と「辛抱」。
ゆき
実質的主人公。髪はやや栗毛色のかかった三つ編1本。某女子高(生徒が女子しか描かれていなく、決定的なのは第2巻「振袖いちまの奉公」でゆきの学校の文化祭の看板が「□□女子高祭」となっている。)の1年B組所属(年齢は15?16歳と考えられる)。得意は裁縫。
去っていくいちまを呼び止め、自分の部屋に置くことにしたのが身の因果。いちまが「お友達(ゆきの曾祖母)」がらみの思い出でつぎつぎと出す要求を、次々と(基本的に)独力で実現しなければならないはめに陥る。別に義務でも何でもないのだが、ゆきがいちまのわがままに付き合うのは、一種の優しさからであると思われる。また、いちまはゆきの同情に訴える作戦を使うことも有る。はじめは曾祖母の夢をかなえるのに尽力しようと、死に物狂いで人形屋さんを開くが、それが終わると、実は夢はひとつではなかったことをいちまに聞かされ、愕然とするゆきだった。そこから、ゆきの終わりなき戦いが始まるのである。いちまのことは普通「いちま」と呼ぶが、「いっちゃん」と呼んだこともあった(3巻「振袖いちまの着物」)。
学校の制服はセーラー服を基本とした形式で、白の衿の白シャツに明るい薄緑色のセーター。スカートは渋い薄緑の地に緑・青の帯と柿色の線のタータンチェック柄のボックスプリッツのミニスカート。校章は左胸につける。夏服は同仕様の半袖と思われる(単行本3巻表紙より。夏服はカラーの表現が無いので、白黒頁より推測。)。
イルカ カッション イナリー ヒンズー ケミカル ヤブラン おりあお パララ アリーナ テリア キンバ マキャベ フードル ハイファイ マイル けんち バルジ ビリティ ビスケ ボール オセロッ ロス ストップ マリン ローエン ランタナ ギブアウ キドニー コーヒー ヒヤシ ファクタ ジュレハ ショベルカ ライフ リック ドレス シーエム ガヤツリ レーン ケション ナラタ プレイ デパオク グロテ ハジャイ トリック シロシ ドット リナッ フィア

その他 [編集]
上記2名の主役以外のキャラクターは出演頻度が格段と低くなる。本物語はいちまとゆきの二人を主軸に描いたものであることが解かる。

いちまの「お友達」= ゆきの曾祖母(本名:いく)
本名は本編では登場せず、単行本3巻のあとがきで明かされる。もう死んでいるので、いちまの思い出としてしか出てこない。しかし、物語始まりのきっかけとなる重要な場面であり、1?2カットでも、ほとんどの回に登場する。年齢20代くらいの絵が出てくるので、いちまにとってその時代が一番思い出深い頃なのであろう。おもざしがゆきに似ている。いちまも「お顔が良く似ている」と証言している。いちまの発想・行動の起点であり、ゆきの労働の元凶でもある。しかし、ゆきの献身的努力により、いちまとゆきは新たな真の「お友達」になれた。
いくの亡くなった時期は明記されていない。漫画から解かる情報は下記である。
いちまが知らないうちに亡くなった。→いちまが物置に入れられた後
ゆきの母が嫁いできてから、いちまを形見として物置にしまった。→いちまが物置に入れられる前
1. と2. は完全に矛盾する。この辺は、作者も深く考えずに描いたと思われる。
ゆきの母(マチ子)
いちまを物置にとじこめた張本人。お嫁に来たばかりで若かったから市松人形ってなんか怖かった、というのが理由。健康的で明るく家事をよくこなしてそうなお母さん。ゆきとはあまり似ていない。ゆきは曾祖母と似ているので、隔世遺伝かもしれない。
ゆきの父
顔はゆきの祖父似。ほとんど登場しなかった。3巻の「振袖いちまの記憶」で、やっと顔がわかる。几帳面な性格。その超人的記憶力にはいちますら恐れをなす。いちま手製の暴力的な味のペパーミントアイスを笑顔で完食してくれたことで、いちまは好意を持つ。
ゆきの父方の祖父
ゆきのおじいちゃん。いちまにとっては「お友達」のおぼっちゃま。当時、おぼっちゃまは悪戯ざかりで、いちまは逆さ吊りにあったり虐待の限りを尽くされた。そのため、いちまにとっては最も恐ろしくかつ憎むべき敵である。今は、もう老齢になったおぼっちゃまに復讐を試みるが、敵も手ごわく、いちまとおじいちゃんの戦いは続く。
ゆきの父方の祖母
ゆきの祖父に嫁いできた。洋風の暮らしを好み、家をカントリー風に改造しようと企てる。ゆき以外でいちまの正体を知る唯一の人。ゆきが作ったいちまの妹人形「にま」を、ゆきからプレゼントされる。
ゆきの親友二人組み
一人はショートヘアのカチューシャ装備。一人はお下げの三つ編。二人はゆきの大の仲良しで、いちまの労働をするゆきの手伝いをしてくれたこともあった。学校のクラスは別。いちまの人間形態とは顔見知りで「着物ガール」と呼んでいる。カチューシャの方は途中で転校してしまう(3巻「振袖いちまの一葉」)。

2009年03月10日

ギネス・ワールド・レコーズ

ギネス・ワールド・レコーズ(ギネス世界記録、英:Guinness World Records、ギネスブック)とは、世界一を収集した本。略称ギネス。
アイルランドのビール会社、ギネス社 (Guinness) の関連会社「ギネス・ワールド・レコード社」が発行している。様々な分野の世界一が何かを認定、掲載している。「ギネス・ワールド・レコード社」には様々な地域から申請が届く。

収録されるのは、発行元が定める「認定されたカテゴリー」の下で「認定されたルール」に従って作られた記録である。長く「ギネス(ブック)」の名称で親しまれていたが、2002年度版から「ギネス・ワールド・レコーズ」(「ギネス世界記録」)に改称された。また、2005年8月には東京タワーフットタウン3階に、ギネス世界記録を集めた博物館「ギネス・ワールドレコード・ミュージアムTOKYO」が開館している。

NHKのニュースや番組では公共放送の性質上、商号及び商品名を宣伝しないよう「世界の記録集」「世界の記録を集めた本」などと表現される(例外で、一部番組では番組の性格上「ギネス」が用いられることもある)。

毎年11月の第2木曜日は、ギネス・ワールド・レコード社が定めた「ギネス世界記録の日」である。

日本語版
日本語版は1966年に竹内書店が『これが世界一 記録がなんでもわかる本』という題名で発行した。1971年には同じく竹内書店から『記録の百科事典 世界一編』という邦題で発行された。

『ギネスブック』のタイトルで発売された邦訳は、1977年に講談社から出たものが最初で、同社からは1988年版まで刊行された。1989年版はエトナ出版が、1990年代以降は長らくきこ書房が手がけてきたが、2002年版(この版のみタイトルが『ギネス・ワールド・レコーズ』)を最後に取り扱いをやめた。

2003年版は日本では発行されず、2004年版からはポプラ社が『ギネス世界記録』の題名で発行している。ポプラ社版の特徴としては、児童の興味を惹きつけるようカラー写真を多用し、ページ数や掲載されている項目数がやや少ない。

歴史
ギネスブックの発行は、ギネス社の社長であるヒュー・ビーバーが、仲間とアイルランドへ狩りに行った時の出来事がきっかけ。狩りの獲物のうち、世界一速く飛べる鳥はヨーロッパムナグロかライチョウか、という議論になり、これになかなか結論が出なかったためで、ビーバーがもしこういう事柄を集めて載せた本があれば評判になるのではないかと発想した。ロンドンで調査業務を行っていたノリス・マクワーターとロス・マクワーターに調査と出版が依頼され、1951年にギネスブックの初版が発売された。

登録するには、ギネス世界記録のウェブサイトから申請する。なお、必ず英語で行い、自分の住所や名前、電話番号(もちろん国際電話番号)、内容や理由などを書く。英語での申請は無料であるが、申請には6?8週間かかる。 2008年3月より、全文日本語での登録申請が可能となったが、その場合の申請料は1000ポンドである。日本語プレミアムサービスを使用した場合は、通常3営業日内に連絡がくる特典がある。ただし、プレミアムサービスを利用したことにより、申請内容が認められるとは限らない。

申請内容が記録カテゴリーとして認められた場合は、ギネス世界記録本部から記録挑戦のためのガイドラインなどの必要書類が送られてくる。その後、記録挑戦内容を写真、及びビデオでわかりやすく収め、それを郵便ででイギリスの本部に送る。また、イギリスのギネス世界記録本部で働く認定員に、記録挑戦の場に来てもらうよう依頼することもできるが、移動費、人件費などの費用は申請者の負担となる。現在ロンドン本部には日本人の認定員が1名おり、認定を依頼することも可能である。その後、記録が認められれば、ギネスから認定書が届く。
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ギネスには毎年6万件以上もの応募が来るため、記録カテゴリーとして新しく認められるものはわずかである。通常の申請をした場合は、連絡に時間がかかるが、ギネス世界記録では必ず応募者に対して返事を送ることになっている[1]。

記録の認定・登録の基準
申請された記録内容についての認定・登録は、ギネス・ワールド・レコーズ社の記録認定委員会が決定する。新しい記録カテゴリーとして認められるには、最低限、以下のような基準が満たされる必要がある。

記録達成が証明されること
記録が数量化できること
今後記録が破られる可能性があること
記録内容が国、地域に限定されるもの、または特殊すぎるものは却下される可能性がある。

また、次のような申請内容と判断される場合は受け付けられない。

申請内容が、挑戦者本人、観客、周囲の人々を大きな危険に晒すもの
申請者以外の人が、その記録に挑戦するに値しないと判断されるもの
かつての版では、社会問題や人権問題に抵触し、倫理的・道義的に問題のある行為や、あるいは命に関わる大変危険な行為を伴う内容に関する記録がいくつか掲載されていたが、近年の版では掲載されていない記録もあり、また新規・更新の申請を受け付けられない記録もある。

過去の版に掲載されていたが、現在の版では掲載されていない記録の例

リナ・メディナによる最年少の出産記録(5歳7ヶ月21日で出産)- かつては「最年少出産記録」の項目として掲載されていたが、現在は掲載されていない。理由は明言されていないが、女児に対する性犯罪を誘発しかねないことや、幼児婚などの人権問題を生じるためと考えられる。
早食いの記録 - 1980年代頃の版までは食べ物の早食いの記録が掲載されていたが、記録への挑戦による無謀な早食いで命を落とす事故が多発したため、1990年代以降の版で記録が掲載されなくなり、また新規の記録の登録や更新の申請についても、挑戦者の安全に配慮されたルールに則らなければ受付けをしないと表明するようになった。

2009年02月22日

道教 (どうきょう、Dàojiào、英語 Taoism)

道教 (どうきょう、Dàojiào、英語 Taoism)は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。
アビランド ケイソ グズア 月の宿 トラム 太鼓判 バロイ ガリウム ジョーカー スーパー プチブ ダムウェ フット チルドレン シーズン ポインセ キッチン メンチ ナラティブ 河童大王 アービト キャリア カララー ダブルシン ガッツ カフス ビジョン デバイ マスゲ シェード ナル 華麗 プロジェト スタート スタンド ハノー リアリ スヌーピ アオザイ フォトメ ビンバ シネコン スローガン ライン センナ ハイマツ アコード フォカマイ スコア ケブキ

道(タオ)という宇宙と人生の根源的な真理の世界の不滅と自然と一体となり修行し煉丹術の習得に励み、不老不死の霊薬、丹を煉り服用し、分け与え、仙人となることを究極の理想とする観念を会得して常日頃、普段身近にし清く保つこと、漢民族の土着的・伝統的な宗教。道の字は?(しんにょう)が終わりを、首が始まりを示し、道の字自体が太極にもある二元論的要素を含んでいる。

日本においての道教の世界とは真理を教わることでなく、教えをもってその人なりに理解をした各人が意欲をもって各人なりの道を学び得て身につけてゆくことであり、気づきをもって各人の生活の場面でその身に付いたものをそれぞれに生かし、変わらない中で変えてゆき、生活の配合に取り入れ多種多様に変化させながらも大切に思うことを清く保ちつづけて生きてゆくこと。正しく道義を貫きその事をずっとやって行こうと清く強い意志を持ち、繰り返すうち、幾度も通るたびに徐々に歩いた跡のそこに道が出来ることに由来している、その中へ美しい所作が加わり、子孫が繁栄され継承されるようになると流派となる。日本の宗教以外の実用面では、柔道、剣道、茶道、煎茶道、華道、香道、として用いられ、道の分野の順番として、道のあとに流派であり茶道羽澤流のように茶の和心の道としての茶道、そののなかで極みとして特徴をもつ種別として流派が云われる。

神仙となって長生きをすることは道をえる機会が増えることであり奨励される。真理としての宇宙観には多様性があるとしており、道教における宣教師的存在である道士らの宗派は、宇宙の多様性を示しているとして大いに歓迎される。また中国で三教が共存するのは多様性をよしとするからであり、各々が補完しあっている。また、食生活においても何かを食することを禁ずる律はなく、さまざまな食物をえることで均衡がとれ長生きするとされる。

現在でも台湾や東南アジアの華僑・華人の間ではかなり根強く信仰されている宗教である。中華人民共和国では文化大革命によって道教は壊滅的な打撃を受けたが、民衆の間では未だにその慣習が息づいている。また現在では宗教帰依が許され、その宗教観の修復がなされている。

なお、老子が教祖とされるため一般によく誤解されているが、老荘すなわち道家の思想と道教とには直接的な関係はない。ただし、道教が創唱宗教の形態を取る過程で道家の思想を取り入れたことは事実で、そのため西欧では、アンリ・マスペロを筆頭とするフランス学派の学者たちを中心に両者の間に因果関係を認める傾向があり、両者の混同から19世紀後半に両方を指す語としてタオイズム(Tao-ism)の語が造られた。それを承けて、日本の専門家の間でも同様な見解を示す向きが近年は多くなってきている。

どのようにして現在のような宗教的思想体系になったのか、ほとんど不明である。道教の発生は、中国古来の巫術もしくは鬼道の教を基盤としている。その上に、墨家の上帝鬼神の思想信仰、儒教の神道と祭礼の哲学、老荘(道家)の「玄」と「真」の形而上学、さらに中国仏教の業報輪廻と解脱ないしは衆生済度の教理儀礼などを重層的・複合的に取り入れてできあがった物であろう。

隋・唐・五代の時期に宗教教団としての組織と儀礼と神学教理とを一応完成するにいたった。

歴史的に形成された道教
道教の教団の制度は2世紀頃の張角の太平道(黄巾の乱)、さらに張陵の五斗米道(天師道)の教団制度が基本にあるのではないか、と言われている。更に中国に入ってきた仏教の教団制度との類似も指摘されている(特にその出家制度)。

西晋末の葛洪(かっこう)は、『抱朴子(ほうぼくし)』を著し、仙人となるための修行法を説いた。

北魏の寇謙之(こうけんし)は、新天師道をおこした。

5世紀頃(劉宋)の江南で活躍した道士、陸修静(りくしゅうせい 406年 - 477年)はさまざまな流れのあった道教をまとめあげる事に大きな寄与をした、と言われている。当時、江南呪術の系譜であるといわれる「三皇経」、またその他に「霊宝経」、「上清経」などと称される経典群があったが、それらは、系統的に別々の流れのものだった。このころには、道の変化した神である「元始天尊」「霊宝天尊」「道徳天尊」の三清が文献上現れている。

南斉・梁の陶弘景(とうこうけい 456年 - 536年)は、それらを体系づけた『真誥(しんこう)』を著した。

同姓の老子(李耳)を宗室の祖と仰ぐ唐朝は、宮中での道教の席次を仏教の上に置いた(道先仏後)。玄宗の時代には、司馬承禎から法籙を受け道士皇帝となり、自ら『道徳経』の注釈書をつくり、崇玄学(道教の学校)を設置してその試験の合格者は貢挙の及第者と同格とされた(道挙)。

唐末の道士杜光庭(とこうてい)は『道教霊験記(どうきょうれいげんき)』、『洞天福地岳瀆名山記(どうてんふくちがくとくめいざんき)』を著わした。

宋代には真宗や徽宗といった皇帝が道教を保護し、内丹術(ないたんじゅつ)や錬度(れんど)の科目が盛行し道教の姿も大きく変化していった。

北宋の張伯端(ちょうはくたん)は『悟真篇(ごしんへん)』という 内丹道の主要経典を著わした。

道教では、八仙と呼ばれる8人の仙人が並び称されるが、なかでも宋代の呂洞賓(りょどうひん)が、もっとも有名な仙人と言える。

金・元の時代に、北方で全真教に代表される新道教が成立した。また南方には、五斗米道の流れをくむ正一教が教勢を張っていた。

明代の正統年間には『正統道蔵』、万暦年間には『万暦続道蔵』と、道教の大蔵経である道蔵が成立した。

「西遊記」では、玉皇大帝(ぎょくこうたいてい)が孫悟空に斉天大聖(せいてんたいせい)の位を与えている。

明代の通俗小説「封神演義(ほうしんえんぎ)」では道教の神々が数多く登場するが、この小説の内容が民間で流行したために、「封神演義」で創作された故事がそれまで伝えられていた説話と置き換わったり、廟に創作上の人物の名が掲げられたりするなど、後の信仰に影響を与えた。

日本における道教
仏教や儒教と同じ頃に道教も日本に渡来した。律令制にも道教に関する役所が採用されたが、民衆運動や政争に利用され、仙人になるために水銀などの危険薬物を使うため、やがて廃止された。それにかわって、陰陽師が道術を取り入れ、日本独自の陰陽道が生まれた。陰陽師としては、平安時代の安倍晴明などが有名である。「天皇」という称号も道教に由来するという説がある(天皇大帝参照 すなわち北極星という意味であるという説)。また、道教が日本の文化に受け入れられなかった理由の一つとして、仙人思想が日本文化に確立された天皇制を覆す思想に繋がるという理由で日本人には受け入れることができなかったためである、という説もある。

日本での道教寺院は、埼玉県坂戸市の聖天宮などがある。

陰陽道の思想は日本の都の建設や神社の創建にも影響を与えている。龍穴である。

風水は道教の陰陽五行説を応用したものである。現在でも開運を願って取り入れようとする人がおり、韓国や日本などで盛んである。ただ、これは同じく地理的要素を占う陰陽道とは少し異なる。風水では天円地方の思想のうち地方の部分が形骸化しており、地方を天円と同じく重くみる陰陽道とは異なる。この地方という考えは儀式としての相撲における土俵(古来四角であった)に現れていたが、現在ではその特性を失われ円になっている。

易も、街頭で易者を見掛けるなど、日本にも道教に起源をもつ占術は根付いている。日本に伝来し、定着した道教信仰と言えば、庚申信仰である。各地に庚申塔や庚申堂が造られ、庚申講や庚申待ちという組織や風習が定着している。現代でも、庚申堂を中心とした庚申信仰の行われている地域では、軒先に身代わり猿を吊り下げる風習が見られ、一目でそれと分かる。

辛亥、甲子革令、二十四節気などの暦に関することもかなり道教の影響をうけているが、陰陽道と同じく日本独自の思想と習合などがなされている。

2009年02月05日

グラント (餓狼MOW)

本名は「アベル・キャメロン」。セカンドサウス内のスラム街で生活していたカインと知り合う。アベルは、カインが唯一「親友」と呼べる存在であった。カインもアベルも、お互いに孤児であった頃に出会った。寝食を共にし、どんな時でもお互いに助け合ってきたことで、2人はお互いを理解しあうほどの仲となった。
ヤーダ ひまわり ヘンチック ロミア シロタ イングラ カフジ はばたけ チンナカ テライト オーツ インチ ウバナ ミクロン スカウト ドットコム ティアラ きょうせい ニードル シュート ヒュー パート フラッ バタフライ メイド ケミカ 大葉春菊 一寸法師 ポリス ギアナ ニガナ リルフール フィック バネー ビー玉流し ダンディ インプット らんぐい ムール ものう ユニーク ムベ ジップア のぎつね ロッテル モヘンジ ハウス タンドー ブロージ リグニン

ある日、アベルとカインは、自分たちと同年代の子供が、チンピラたちに撲殺されるのを目撃した。2人は、死んだ子供を埋葬すると、カインはアベルに対して、「戦わずして朽ち果てたくない。いつかここを抜け出して全てを手に入れてやる」と宣言し、アベルにも一緒に来てほしいと呼びかける。カインは、全てを手に入れる力を得るためにも、アベルの助けが必要であるとも話した。アベルも「俺もここで死ぬのは嫌だ」と同意した。そしてアベルは、カインを助けることを誓い、2人の間に固い絆が結ばれた。

カインがドン・パパスに買われてから、カインの野望である「セカンドサウスの独立化」を実現させるために、アベルはカインを補佐する仕事に付いてきた。アベルの仕事は常に完璧であり、カインの組織内での力を強めていくことができた。

しかし、カインの出世ぶりを妬んだ組織の幹部の1人によって、アベルは胸に銃弾を受ける。一命は取り留めたが、銃弾の摘出は不可能であった。弾丸は、アベルの心臓に近付いており、心臓に到達したときがアベルの最期であり、残された時間は4年。

アベルがいつ、「グラント」と名乗り始めたかは不明。グラントはいつしか、「破滅の象徴」「魔人」として畏怖されてきた。現在のグラントは、201cmの身長に105kgの体重で、筋骨隆々とした体を持つ巨漢である。上半身裸に胴着のような赤いズボンを履き、大きなマントを身に着け、顔を仮面で覆っている。

『餓狼 MARK OF THE WOLVES』(以下『MOW』と表記)では、決勝を勝ち抜いてきた格闘家の前に姿を現し、自らを「力の殉教者」と称してプレイヤーに戦いを挑む。プレイヤーに敗れると、グラントは無念の思いを吐露して倒れる。

自身のエンディングでは、カインの存在を目障りに感じて排除しようとしていた組織の人間の元に、カインとともに強襲する。そして、カインがその場の後始末を付ける際に、カインから身体を労るよう囁かれる。グラントの身体に銃弾が埋まっていることを、カインは感づいていたようである。グラントは、自分の命はカインに預けたとして、その場を立ち去る。

本名である「アベル・キャメロン」の由来は、旧約聖書創世記の登場人物でカインの弟、アベルより。

ゲーム上の特徴
『MOW』の中ボスとして登場。対CPU戦において、彼との対戦の前にある条件をクリアしておかないと、勝利してもゲームオーバーとなる(カインと戦うことはできない)。

通常技にキャンセルがかからないという独特の性質を持つため(ジャンプ攻撃は必殺技キャンセル可能)、通常技を組み立てて連携を作り出すということは不可能である。

動作の大きい技が多いが、体格に見合うだけの高い攻撃力と長いリーチを兼ね備える。近距離立ち強パンチと遠距離立ち強キックは、空中の相手に対する追撃攻撃として使用可能。必殺技に相手を浮かす効果を持つものがあり、特殊技の「魔壁」と組み合わせることで空中での追撃や連続技を狙うことができる。

超必殺技の「魔神破天弾」は無敵時間に恵まれており、反撃手段や信頼できる対空技として使える。同じく超必殺技の「魔神円月輪」は時間強制停止技で、反撃や連続技に効果を発揮する。

アーケード版では、隠しコマンドやルーレットで使用可能。

技の解説
投げ技
暗黒落とし
相手を捕えて、抱え込むようにして後方の地面に叩き付ける。

特殊技
魔壁
その場で勢いをつけて、両手を握り締めて体を大きく開き、頭は上を向いて気合を入れる。動作全体の隙が大きいため、主に空中に浮いた相手に対する追撃攻撃として使うことが多い。

必殺技
豪弾劾
その場で身を屈めて構えてから、前方へ素早く突進する。弱と強の違いは突進距離で、強の方が隙は小さい。相手との間合いが近いときにこの技をガードさせると、自分と相手との位置が入れ替わることがある。カウンターヒット時は相手を浮かし、ここから空中連続技を狙うことが可能。
凶鳥刃
片腕を振り上げながら上昇する。ブレーキング対応技だが、基本的にブレーキングするよりも、派生技である「滅焼飛刹」につなげることが多い。強で出すと、着地時に地震を起こす。この地震は下段攻撃だが、相手のジャンプ攻撃による反撃が間に合うほど隙は大きい。
滅焼飛刹
体全体にオーラを纏い、空中から斜め下へ向かって蹴りを出しつつ急降下していく。空中にいる時や、「凶鳥刃」を出した後だけでなく、ジャンプ攻撃をキャンセルして出すことも可能。
黒炎流
オーラを纏うアッパーカットを放つ。弱はその場で、強は一歩踏み込んでから攻撃を放つ。弱はリーチが短いうえにガードされたときの隙も大きい。それに対して強は、ガードされた時の隙が小さく、攻撃判定も弱よりも大きくなっている。
剛烈衝
腕を大きく振り下ろしてからさらにもう片方の腕を振り上げて相手を殴り飛ばす。攻撃発生が遅く、ガードされたときの隙も大きいが、初段の攻撃がしゃがみガード不能技であり、技が当たれば相手を浮かせるので、空中連続技を狙うことが可能。
魔神岩
T.O.Pアタック。突進しながらリーチの長い中段蹴りから始まり、肩口による攻撃に、とどめに掌底による一撃を叩き込む。3発全てガードさせた際のガードクラッシュ値の削り値の高さは、グリフォンマスクのT.O.Pアタック「グリドロスーパーキック」と並ぶ。ただし、この技を相手にガードさせてガードクラッシュに陥らせても、グラント側が有利になることは無い。

超必殺技・潜在能力
魔神破天弾
巨大なオーラを片足に纏い、斜め上前方へ蹴り技の一撃を放つ。強制停止技ではないが、長い無敵時間があり、技の攻撃判定も見た目どおり非常に大きいため、反撃手段や対空迎撃手段として大きな効果を発揮する。潜在能力版は、威力の増加に加えてガードクラッシュ値がT.O.Pアタックと同じになる。
魔神円月輪
円弧を描くように蹴り技を連続で繰り出し、最後に「豪弾劾」を叩き込んで吹き飛ばす。ガードされた場合、「豪弾劾」には派生せず、途中で中断する。無敵時間は「魔神破天弾」よりも短いが、強制停止技であり、発生も非常に早いため、連続技に組み込むことで威力を発揮する。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88_(%E9%A4%93%E7%8B%BCMOW)" より作成

2009年01月21日

文語訳聖書(ぶんごやくせいしょ)

文語訳聖書(ぶんごやくせいしょ)は、文語体で訳された聖書。代表的なものとして日本聖書協会の『舊新約聖書』があり、日本で文語訳聖書という場合はこの翻訳を指す場合がほとんどである。旧約部分は「明治訳」、新約部分は「大正改訳」から成っている。これらの詳細は日本語訳聖書を参照されたい。

明治時代にキリスト教諸派による宣教が行われ、様々な聖書の翻訳が行われた。日本語の文章語が大きく揺れ動いていた時期であり、言文一致運動による口語文も日が浅いために格式のある文章には相応しく無いという考えも多く、第2次世界大戦前に行われた翻訳はそのほとんどが文語訳である。

この時期にもっとも日本で普及した文語訳聖書は、日本聖書協会(当時は英国外国聖書協会、米国聖書協会、北英聖書協会の日本支社の共同事業)が発行した日本語訳聖書であり、旧約部分は1887年の明治元訳からなり、新約部分は1880年の明治元訳から1917年に大正改訳に切り替わっている。

この他の文語訳の聖書としては、たとえばカトリック教会で事実上の標準訳として用いられたラゲ訳や、日本正教会のニコライ訳などがあげられる。

大正改訳聖書(たいしょうかいやくせいしょ)はそれまでにあった明治元訳聖書を大正時代にプロテスタント宣教師達が改訳した日本語訳聖書である。詳細は日本語訳聖書を参照。

経緯
明治元訳聖書は英国外国聖書協会などによる初の本格的な日本語聖書出版であったが、その不備も当事者達には認識されていた。特に、それまでの標準的な英訳聖書であった欽定訳聖書にとって変わる改正訳が現れたことなどから、日本語訳聖書の改訳が行われた。新約聖書が1917年に『改訳 新約聖書』として出版され、これが大正改訳聖書と呼ばれている。旧約聖書も改訳作業が行われていたが、完成しないまま戦後になって方針が口語訳に転換された。従って大正改訳には旧約聖書は含まれていない。

評価
明治元訳に比べて正確になったことに加えて、日本語として読みやすくなったことが評価されている。なによりもこの訳は教会外の人にも多く読まれ、日本におけるキリスト教理解に大きく貢献した。「目から鱗」や「狭き門より入れ」のように日本語の成句として定着した言葉も多い。

明治元訳聖書(めいじげんやくせいしょ)は明治時代にプロテスタント宣教師達によって翻訳された日本語訳聖書である。詳細は日本語訳聖書を参照。

経緯
1872年に日本在留宣教師団の合同会議において新約聖書の共同翻訳事業が決議され、翻訳委員社中が結成される。中心になったのは、すでに日本語訳翻訳事業を開始していたヘボンやブラウンである。資金援助と出版はアメリカと大英、北英の聖書協会が引き受け1875年から順次出版されて1880年に『新約全書』が完成。旧約聖書についてはタムソンらが加わり、1887年に完成した。
ドリーム ミリバ すぐき菜 ちそう パンプ ハーフ カバー しゃるどね リニュ バイオ カリソウ ノータック キシャー スモー スンドゥ ずっき じゅんか チンチラ ブタジ カーネ ロゴ チェック アクシオン ロメン 銀色の雨 マスタ ミーゴー パエリ きんあか ディン ワスプ ハロー ジスト パレード たーつぁい オテコ オープン たまりん ジャグ メラノ カーコン ツガWEB アプリ オービタル ハーフ ナビ夕立 エスアイ つくし プレイシ ハイブ

評価
誰でも分るやさしい文体という宣教師達の考え方と、格調の高い漢文風にしようという日本人補佐達の意見が重なり、独特の和漢混交体での翻訳となった。その評価は分かれるが、日本語の書き言葉自体が大きく揺れ動いていた時期でもあり、明治元訳はその後の日本語の文章の一つのモデルを示したとも評されている。特に旧約聖書の詩篇については、その文体の美しさから日本文学へ影響を与えている。

2009年01月14日

尉繚子

『尉繚子』(うつりょうし)は、中国の戦国時代に尉繚によって書かれたとされる兵法書である。武経七書のひとつ。
オフチ ふくち ブラン ぶんかく プラント スマ フロック トトッ メタロ ダイオプ ブリキア パタゴニア ライン パラメータ ジューク ハンガー ビエン きつね ピラミッド ビールス バーテン トパバス パーマワ チュリア しろくま そうこ ハラーム ヒューズ デスバ ループ ティーツ ライブ イペリッ ナビオギ シーディ イザベ アカシア こじゅう オールロ ゼット パートナ リソース レサーチ シュツルー ケオキキ レモン ピッチ ラック まくわ トータル


『孫子』・『呉子』と並んで古くから、その評価が高い兵法書であったが、一方で「厳酷苛暴」という評価(方孝儒による)があった。また著者である尉繚の経歴や全体の構成について諸説があって[1]、伝本の経緯が判明しない事から、明代以後には偽書説が唱えられ、清の姚際恒によって偽書と断定されてからはそれが通説となった。

1972年になって山東省臨沂県銀雀山の前漢時代の墓から出土した兵法書群(竹簡孫子参照)の中に『尉繚子』の写本が発見されたため、一転して戦国時代から遅くとも秦代にかけての著作である事が明らかとなった。だが、同時にこれまで未発見の兵法書[2]の中に『尉繚子』と同一の内容の文章が見つかった事から、後世において編纂が加えられた部分も存在する事も合わせて判明したのである。

「尉繚」とは誰か?
『尉繚子』が書名からして、尉繚という人物(あるいはその門人ら)が執筆したという事は推測がつくところであるが、では尉繚がどんな人物かという具体的な点となると諸説があって判別しがたいのが現状である。

一般的には次の説が挙げられている。

斉の人で鬼谷子の門人であったという説。
魏の人で恵王に仕えていたという説(『尉繚子』本文に恵王と尉繚子との会話が登場する)
魏の人で商鞅の学問を学んだ後に秦王政に仕えて対秦包囲網を破る策を上申するも、王の残忍さを危惧して去ることを決意する。だが、王の懇願によってそのまま秦の将軍となった(『史記』の説)。
この中では、内容が具体的で商鞅の影響を受けているという点で一致しているのは3.であるが、これを採った場合には尉繚は魏の恵王よりも100年も後の人となり、文章との矛盾が生じる。この矛盾については、魏の恵王との会話から始まる『孟子』のスタイルを模倣したのではないかと推測する説がある。また、文中の戦闘形態が戦国時代中期の様相に似ているために、2.を支持する説もある。また、2.と3.を同一人物とすることは無理でも何らかの血縁関係などを想定する見方もされるなど、尉繚の実像については未だに具体的な姿がつかめていない。

内容と思想
『尉繚子』には先行する兵法書である『孫子』・『呉子』の他に『孟子』・『韓非子』・『商君書』などの影響を受けた部分が含まれており、後世偽書説が言われた理由の一つにもなったのであるが、逆に『尉繚子』がこれら先人の学説を統合してより高度な軍事・政治理論を構築しようとしたのではないかとする積極的な評価もをする見方や尉繚の流れを汲んだ後人による加筆を想定する見方もある。

自国の利益を得るために行う軍事行動を厳しく非難する一方で、大義名分がある戦いならば先制攻撃もやむを得ないと捉えている。

また、政治がきちんと行われて民生が安定していなければ、民衆を軍事に動員する事は出来ないと説く。また、商業の役割を比較的に高く評価しており、農業を主としつつも商業とのバランスのある発展が人的交流を通じた情報収集につながると評している。その一方で、軍人に対しては兵の質を高めて効率的な戦闘を行うためには徹底的な規律(軍政)の必要性を唱えている。

現行本の構成
全24巻。

天官
兵談(竹簡本にあり)
制談
戦威
攻権(竹簡本にあり)
守権(竹簡本にあり)
十二陵
武議
将理(竹簡本にあり)
原官(竹簡本にあり)
治本
戦権
重刑令
伍制令
分塞令
束伍令
経卒令
勒卒令
将令
踵軍令
兵教上
兵教下
兵令上(「守法等12篇」にあり)
兵令下(「守法等12篇」にあり)